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創価母のつぶやきブログ

信仰人生42年の経験と思う事を綴って行きたいと思っています。

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Posted by mimipita on  

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創価学会初代会長 牧口常三郎氏 7

Posted by mimipita on   0

皆様こんにちわ、とうとう昨日(3日)で「法華経展」も終わりましたね。
見て来れた方々良かったですね。♪

でわ、間が空きましたが、牧口先生の内容を載せます。

1941年(昭和16年)3月 「治安維持法」が、改正され、軍部政府は戦争遂行の
ために、思想、宗教の統制強化をはかり、組織ごと取り締まる事が出来るように
しました。

そして12月、対米戦争を迎えると天皇制イデオロギーで国民を統一するために、
皇大神宮の大麻(神札)を祀る事が全国民に強制されるようになる。

牧口は、自らの宗教的信念をつらぬき、まっこうからそれに反対する。
国家権力との生命をかけた闘争をはじめたのだった。


1941(昭和16年)創価教育学会の機関誌として「価値創造」が創刊された。
牧口は精力的に論文を書き会員の指導にあたった。座談会では御書を引いて
話をする事が多くなった。
厳格に日蓮仏法を守り謗法払いも続けていた。
座談会の名称も「大善生活法実証座談会」と変えた。
そのころの「創価教育学会」の支部は、東京16、地方12、を数え、会員は
4000人までになっていた。

そしてその年の5月、「価値創造」は廃刊を命ぜられた。
当局がいよいよ危険視しだしたのだ。

11月の第5回総会で牧口は「信者と行者と区別しなければならない」と
講演した。
自分の為だけに信仰しているならば、魔は起こらない。それは小善生活の
信者である。しかし、人のため、法のため、菩薩の行動に出れば必ず
三障四魔が競い起こる。起こるがゆえに、法華経の「行者」と言われるのだ。

牧口は宗門の僧侶を「信者」にすぎないと批判した。
宗門の当局への迎合に憤りを感じていた。

1941年(昭和16年)3月10日 本山で僧俗護法会議が開かれた。
牧口と戸田が出席していた。

席上、日蓮正宗の僧、小笠原慈聞は軍部政府の手先となり、
「神本仏迹論」という邪義を立てて身延派との合同を迫った。

牧口は日蓮大聖人の仏法の正法正義を貫くよう主張したが、
弱腰の宗門は、聞き入れず、檀信徒に、大麻(神札)を受諾するよう
通告する。宗門は大聖人に違背し、戦争協力へ傾斜して行った。

その後牧口は、当時の法主、日恭上人に「いまこそ国家諫暁の時である。!」と
直諫するが、当局を恐れる法主は、牧口と戸田を登山禁止処分にしたのだった。

座談会に特高警察が立ち会うことが増えて来た。
昭和18年頃には、話が「神札」や「国家体制」の内容になると
「弁士! 中止!中止!」と直接さえぎるようになった。

牧口は何度中断されようと、国家崇拝、邪宗崇拝の非を訴える事を
止めなかった。
牧口は自分の言動で不当逮捕になる危険を予想していた。
その時は、法廷で自分の考えを主張しようと国家諫暁の姿勢をつらぬく
決意を固めていた。

すでに警視庁に2度呼ばれていた。5月には中野署に1週間留置され
取り調べを受けた。牧口はその頃から逮捕を現実の事と受け止めはじめた。

牧口は戸田に言った。
「一宗が滅びることではない。一国が滅びる事をなげくのである。
いまこそ、国家諫暁のときではないか。なにを恐れているのか!」

牧口は7月4日から伊豆の下田で座談会に出席していたが、6日の朝、
刑事に連行された。「治安維持法」「不敬罪」の容疑だった。

戸田も同日、目黒の自宅で、逮捕されたのだった。

牧口72才の時だった。これから獄死までの500日の獄中の闘いが始まるのです。


次へ続きます。最後まで見て下さいまして

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