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創価母のつぶやきブログ

信仰人生42年の経験と思う事を綴って行きたいと思っています。

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Posted by mimipita on  

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創価学会初代会長 牧口常三郎氏 2

Posted by mimipita on   0

ニュースにありましたが、「盲導犬」への刺傷事件が起きました。
9才のオスカーくんです。鳴かないように訓練を受けてるために、飼い主さんは
気がつきませんでした。
このようなことをした人間を許せませんよね。抵抗しない弱いものにいたずらや
ひどい事をして、心の不満をはらす事は一番最低です。!!

こう言う事象を考えても、人間とは考え方(思想)によって、良い人間、悪い人間の
どちらにもなってしまいます。やはり、生き方、どう思って生きて行くか?ではないでしょうか?

私は創価学会員として41年になりますが、ガチガチの会員ではありません。
20代の頃はけっこうガチガチで新聞、書籍も読んでいまして、勉強をしました。
もちろん、勉強だけでなく、自行や活動、会合の参加、運営など。
役職も下の役職を30年やって来ました。聖教新聞の配達を5年ほどの経験もあります。

学会は強制される事はあまりなく、自主的に動くのが基本です。「信行学」が基本ですが、
やはり興味が湧かないと、書籍もあまり読まないですね。
父が沢山「書籍」を持っていましたが、私が読んだのは極一部です。2代会長の戸田先生や
3代会長の池田先生のも沢山ありますが、読んだのは「人間革命」「婦人抄」くらいです。後は
「新聞」や「大白蓮華」(月刊誌)を読むだけです。

ですので、「初代会長の牧口先生」の事は「価値論」「人生地理学」の理論を出した事
しか知りません。内容も知りませんでしたので、牧口先生の本が出てる事を
最近、知りまして、初めて購入して、読んだ次第です。

「牧口常三郎氏」とはどんな人物で、何を主張し、思いそして、なんのために、
投獄され、どう闘い死んで行ったのか?をブログ上で私なりにまとめて
述べて行きたいと思います。


1871年(明治4年)6月6日 新潟県柏崎市荒浜で生まれました。
渡辺長松とイネの長男で長七と名付けられた。
荒浜は漁の技術が優秀で、漁網の生産で栄えていました。

長七が幼い頃に父親が北海道に出稼ぎに行ったきり行方不明になり、
母イネは違う人と再婚することになります。その後長七が6才の時に
父の姉(叔母)トリの嫁ぎ先である牧口善太夫の養子となります。

小学校にあがると「優等生の牧口と一目おかれるようになる。家の手伝いを
しながら、勉学に励む子供だった。学校に行けなかった日は友人が来てくれて
その日の授業を教えてくてた。
長七が優秀なのは村中がしっていた。善太夫も、小学校卒だけで、終わらせたく無いと
考え、交流のあった、北海道小樽に長七14才の時に親戚知人を通し送り出す。
長七は「小樽警察署給仕」の職につく。仕事の合間や夜は自由に勉強が出来た。

勤勉な長七は「勉強給仕」と署員からも可愛がられていた。
小樽郡長である署長の森長保の推薦を受け、17才の時に
札幌の北海道尋常師範学校へ入学する。
全寮制で制服や支給金もでる待遇を受ける。苦学生には幸運なことです。

4年制の師範学校では、教育、国語、漢文、英語、数学など14科目があった。
その中の「地理科」に興味沸き、人間社会と地理との関係を解き明かしたいと
コツコツと研究をつづけた。

1893年3月 師範学校を卒業する。名前を「長七」から「常三郎」と改める。
卒業し付属小学校の教師となる。それから2年後に、同郷の紹介でクマ19才と結婚。
常三郎25才のとき。
文部省検定試験の地理科に北海道で始めて合格し、師範学校助教授となる。
付属小学校の校長もかね、28才の若さで北海道教育界を荷なう人物と期待されていた。

『内村鑑三の「地人論」』 『志賀重昂の「日本風景論」』の出版に、刺激を受け
牧口もいつしか自分の地理研究の成果を世に問いたいと願うようになる。

牧口が地理の本を出版しようと思ったのは「地理学」が軽んじられていたからだ。
地理教育の方法を改良すれば多くの教育上の疾患が解決するとの思いが有った。
牧口の考える地理学は「人」と「地」の関係を読み解き、人が生きる上での世界観と
目的を与える学問にほかならない。

牧口は退職し、東京に出る。子供2人連れ、生活は苦しくなるが「地理学」の研究だけは
続いていた。

『人生地理学』を1903年に発刊。日露戦争の前年にあたる。
牧口は人道的な世界調和の必要を説いた。
1000ページに及ぶ大著で、地理、地勢の解説、人間社会の営みと地理の関係を
語り、自然との共生を訴え、さらには世界市民の自覚に立った新たな世界観の
提示までなされている。
当時の日本の地理学を塗り替えるほどのインパクトを持ち、「小川琢治」「新渡戸稲造」
など著名な学者たちに感銘を与えた。教師や学生にも読まれ、文献地理科受験者の
必読書と言われた。

東京師範学校の同窓会「茗渓会」の書記の職に着きながら、同会発行の雑誌
「教育」の編集をしたり、女子教育の通信講座の企画運営、雑誌「日本の少女」
教員向け雑誌「先世」も編集を手がける。教育の実践家、教育ジャーナリストとして
活動をしていた。
牧口の「人生地理学」を中国語に訳し自国で出版した中国人留学生もいた。

東京では社会主義者とも議論し交流があった。牧口が主張する所と似た所があった
からだが、変革の仕方が、急進的に体制を崩すやり方には反対であった。牧口は
社会改革は、社会を構成している人間の精神面の変革を持ってしか出来ないとの
信念を持っていた。それが教育者としての、彼の誇りであった。

1910年8月 文部省嘱託、図書課で地理教科書の編纂に従事する。
12月 「郷土会」が結成され、新渡戸稲造、柳田国男、牧口も入会し、月1回の
例会や調査旅行に率先して参加していた。

牧口はどの子にも、一番幸せな人生を歩ませたい。そう願って祈るような気持ちで
教壇に立っていた。牧口にとって、教育とは、すべての民衆が幸福の扉を自分の
力で開く事が出来るように、その力を開発させるためのものであった。
だからこそより多くの子供達に教育の機会を与える事が大切だと考えていた。

特に、女子は小学校以上の教育に恵まれない、厳しい、貧困や制度不備の現実が
当時はあった。「学ぶ機会を逸してしまう少女があまりに多いことは、女性の将来の
為にも社会の未来の為にも決して傍観出来る事ではない。」と「大家庭」に書いている。

1904年5月 大日本高等女学会ー通信教育団体創立に参加する。
小学校卒業の女子向けの2年制の通信教育です。
家事、裁縫、家庭割烹、の他、地理、歴史、英語が組まれていた。

付属の女芸教習所も設立し、少女達に技能を身につけさせ経済的
自立を目指す、女性育成を進める。
しかし、日露戦争で景気が落ち込み、資金繰りが苦しくなり、この計画は
挫折する。


次に続きます。最後までご覧下さいまして、たいへん

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