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創価母のつぶやきブログ

信仰人生42年の経験と思う事を綴って行きたいと思っています。

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Posted by mimipita on  

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「法華経展」に行って来ました。

Posted by mimipita on   0

先週の日曜日19日に札幌市厚別区にある「創価学会北海道池田講堂」に
主人、長男夫婦と4人で行って来ました。
北海道で初めて「法華経展」が開催してるからです。11月3日まで開催しています。♪

札幌に来るのは1年以上ぶりです。ここの会館は初めてです。
立派な会館でした。

DSCF3627.jpg

会館に来るきっかけが出来て嬉しかったですね。(^_^)v

DSCF3626.jpg

講堂内ではほとんど撮影は禁止ですので、せめて看板だけでもと思って
写して来ました。


DSCF3625.jpg

記念撮影用のコーナーで主人と写してもらいました。♪

DSCF3624.jpg

ガイドブックを売っていましたので、早速購入しました。
家に帰ってからも見ています。沢山の資料なので、まだ見終えていません。

DSC_0289-3.jpg

講堂内は沢山の人が来ていました。汗ばむくらい暑かったです。
飛ばして見ましたが、びっしり説明の文字が並んでいて、読むのは大変でした。

2時間半もかかりました。少々疲れましたが、2度と見れないかもしれない貴重な
文化遺産ですので、じっくり見学しました。

「釈迦」が誕生した頃からの歴史からはじまりますので、2000年前から、気の遠く
なるような、昔からの尊い教えである「法華経」がいかに昔の人々に愛されまた
尊ばれたか、当時の人々の信仰心が迫って来るような感動を受けました。

「法華経」の教えの素晴らしさを、どう後世に伝えようかと壁画にしたり、
木の皮や石に彫ったり、現代では考えられない文明の時代の苦労が解りました。

1000年以上も前の人が書いた文字を見て、本当に感動しました。
インドから中国に伝わるにしても、今のように乗り物が有る訳ではありません。
馬とかラクダなど、盗賊もいたり、命がけの旅をして教えを求めた人々。

道半ばで死んで行った人々、危険を犯してでも手に入れたいほどの「法華経」
なのですね。

中国から朝鮮韓国そして日本へ、(奈良時代)、海を渡って来るのにも
何人もしけに会い、死んでいます。

私がおどろいたのは仏像が作られたのは、釈迦が亡くなって直ぐではなく、だいぶ
後の時代に、ギリシャの無名の彫刻職人によって作られたのが始まりだそうです。

その頃は西洋人も釈迦の思想を受け入れていました。それが仏像を作る事に
なって行ったようです。

私の強く印象に残ったのがシルクロードにある世界文化遺産の敦煌の壁画です。
1000年もかけて描かれた壁画は言葉で言い尽くせません。

人間とは、かくも尊い生き方が出来る生き物なのか?
2000年の人類の歴史が伝えて来たすばらしい教え「法華経」を現代に蘇らせ
教えて下さった、創価学会の池田先生に心から感謝するものです。
より信仰の確信を深めた1日になりました。

北海道の方々ぜひこの機会にご覧に行かれる事をお勧め致します。

信仰してるしていないにかかわらず、地球人として、未来を生きて行くかてに
なる展示会と思います。人類の文化遺産の内容ですので見る価値があります。
私は二度と見れないとの思いで行って来ましたが、本当に見て来て良かったと
思っています。



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創価学会初代会長 牧口常三郎氏 6

Posted by mimipita on   0

皆様こんにちわ、題名が変わりまして初めての更新です。
複数のブログをやっているものですから、間違って出してることがあり、
ご迷惑をおかけしています事をお詫び致します。m(_ _)m

どうか「創価母のつぶやきブログ」を宜しくお願い致します。

では牧口先生のお話に移ります。

創価教育学会が誕生した、1935年(昭和10年)の頃は、会長のポストは
空白のままだった、牧口は創価教育学研究部の所長の地位にいた。
会長には社会的に影響力のある有力者に着いてもらう予定でした。

1939年(昭和14年)創価教育学会 第1回総会が東京麻布の菊水亭で
行なわれた。
地道な運動の中で教育者ばかりではなく、家庭婦人や一般人も会員に多く
なっていた。
牧口自身、法華経はすべての生活法の革新のカギで、教育法の改革はその一部に
過ぎないという思いを強くするようになっていた。

翌年には第2回総会が開かれ、新しい会の綱領規約などが検討された。
会の目的だった「教育改造」の文字が消え、法華経を基盤に
「教育、宗教、生活法の革新を計り」「国家及び国民の幸福を進めるを目的」とし、

仏法流布を推進することが確認された。
この時空席だった、会長に牧口がつき、理事長に戸田が就任した。

本部は戸田が経営する「自習学館」の2階におかれ、教育研究部、教育者倶楽部、
折伏指導部、婦人部、青年部などの新しい組織体制が生まれた。

牧口が正確に法華経を学ぶ事ができたのは、日蓮正宗の僧侶だった、
堀米泰栄から直接、日蓮仏法を学んだことが大きい。
堀米は、早稲田大学東洋哲学科卒で、牧口の考える在家中心の信仰活動に
強い共感を感じていたのだった。

第2回総会は軍人会館で開かれた。その後 政党関係者が集まる会合でも
講演をした。牧口の話は当時の軍国主義思想を明確に否定するものだった。

「道理に合わない滅私奉公はするべきではない。自己を空にせよというのは
ウソである。両方とも栄えなければならない。」
とつぜん、会場から怒鳴り声が響いた。!
「だまれ!いまは滅私奉公が大切なのだ!」

一瞬場内は緊迫した空気に包まれたが、牧口は静かに威厳をもった声で
「善と利が一致する。つまり、自分も共に幸福になろうというのが本当である。」
と信念を述べた。

それは戦争一色に染まって行く社会を憂える牧口の心の底からの気持ちだった。

牧口は、仏法流布を進めるうえで、体験を語り合う座談会と、個人指導を
重視した。火曜日は自習学館で、金曜日は白金の牧口の自宅で個人指導に
あたり、その他の日は各地の座談会に出席し、合間に教育者倶楽部や
創価教育の講義をし、地方には折伏にも出かけるというフル回転の日々でした。

牧口はどの座談会にも、誰よりも早く会場に来ていた。そして1人でも出席者が
くるとすぐに座談会を始めた。その人の生活の悩みを聞き、信仰上の質問に耳を
傾け優しく仏法の説明をした。そのうち人が次第に増え、自然な形で座談会は
進んでいくのだった。

牧口の教育思想の根幹をなすものが「価値論」であった。
最高の価値を創造して生きる事が人生の幸福であると考え、人間が創造できる
ものとして「価値」を位置づけた。

哲学者カントが唱える「真・善・美」の「価値論の思想」を自分の思想へ消化し

牧口は「美・利・善」と言う独自の価値論を主張した。
さらに人間の生活や生命にとって役立つものを「正価値」とし、マイナスの
作用をするものを「反価値」と考えた。
「美・利・善」に対し「反価値」とは「醜・害・悪」である。

牧口の善の定義は「公益」だった。公益に反する行為は、「悪」となる。
「善い事をするのと、悪いことをしないのは、同じか違うか?」
座談会で牧口はよくこう問いかけた。
悪い事をしないのは、本人にとっては善の行為だが社会全体からみれば
悪を助長させることにつながり、善の行為にはならないと説いた。

牧口は善に大・中・小の三つがあり、小善(利己的善)、中善(偽善的善)を去り
大善の生活をすることを力説した。

大善生活とは、牧口にとって、日蓮仏法を根幹に限りない生命力をわが内から
引き出し、社会の幸福と個人の幸福を共に実現する生き方だった。

牧口先生の生前の言葉から。
「宗教は人生の背骨である。宗教をもたないで生きるのは、背骨がなくて
 歩くようなものである。」

牧口はつねに一人の友との対話を通し、それを積み重ねていくことで、
仏法の正しさを納得させて行こうとした。
ある時一人の青年が、「もっと大規模な講演形式にしたほうが良いのでは
ないでしょうか。」と意見を述べた。

即座に牧口は、「いや、それは違う。人生に関する問題は対話でなくては
相手に通じない。   日蓮大聖人の『立正安国論』も問答形式ではないか」
と答えた。
牧口の「一人の人のために」と言う精神は、今も変わらず創価学会のなかに
脈々と生き続けている。



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創価学会初代会長 牧口常三郎氏 5

Posted by mimipita on   0

今日は朝から小雨で天気が悪くて寒いです。朝の部屋の温度は18℃と
肌寒く、いよいよ秋の終わりに成って来ましたね。

長野の御嶽山の噴火に巻き込まれ犠牲になられた方々のご冥福をお祈り致します。
二次災害や雨による、土砂災害が気になる所ですね。
日本は火山の多い国ですから、人ごとではないですよね。私は登山の趣味は
ないのですが、登山の状況をよく調べてから実行するのが大事かと思います。

では、牧口先生のお話を始めたいと思います。

牧口は独創的な自分の教育理論(価値を創造する)をメモに書留、
膨大な量になっていました。

現役の教師が教育学説を発表した人はいませんでした。
弟子の戸田は牧口の書き溜めた資料をまとめました。
1930年(昭和5年)11月18日 に
「創価教育学体系」第1巻が発刊された。

その日は二人にとって、「創価教育学会」の発足の日でもあった。
教育界に波紋を呼び新聞や雑誌にも取り上げられ識者からも高い評価を
受けた。
「創価教育学支援会」も結成される。
犬養穀(いぬがいつよし)、鳩山一郎、新渡戸稲造、柳田国男らも会員になる。
牧口は日本帝国大学で、講師として呼ばれ講演を行なっている。

しかし反勢力により、牧口はまたも、白金から転属に追いやられる。
廃校が決まっている、麻布新堀尋常小学校に転属辞令がだされ、
19年間の校長生活に別れを告げたのだった。

その頃の社会情勢は、1929年(昭和4年)世界史上最大の金融大恐慌が
襲った。日本は深刻な恐慌不況から脱する道を満州の植民地化に求める。
1932年(昭和7年)満州国の建国宣言をする。世界から批判の的となり、
翌年、国際連盟を脱退する。
日本は軍国化、侵略主義の道をひた走る。
1938年ドロ沼の日中戦争を戦う。

そんな中、牧口は国家を憂い社会改革のために、教育改造の急務成る事を
叫ぶのだった。
「創価教育学体系」は毎年1巻づつ発刊され、3巻の編集が進んでいた頃に
牧口は校長職を退く事と成る。残りを退職金をあてて、刊行した。
戸田は教育関連の事業で経済的に牧口を支えた。
「創価教育学体系」は4巻までしか出版されなかった。
牧口は書物での教育界への与える影響力の限界を感じていた。

時習学館の教師や若手の教師が牧口に共鳴し会員に加わって行った。
牧口は精力的に、教育改革を訴えるため各地で講演活動を始め、機関誌
「教育改造」を発刊し、精力的に創価教育の普及に努めた。

終了後の懇談の場では「それを進めるには正しい信仰をもつことが不可欠
なのだ」と、日蓮仏法を語った。 1人2人と信仰に目覚めさせていった。

会の目的は「創価教育学体系を中心に教育学の研究と優良なる教育者の
養成とをなし、国家教育の改造を計るを以て目的とす。」
と明確に書かれている。
牧口は、国を挙げて戦争への道を突き進んで行く日本の進路を変えるには、
教育によって賢明な民衆を育てて行くことが何より必要なことと考えていた。
会員数は70人ほとんどが教育者だった。

牧口は率先して地方をまわり、運動を広げて行った。
その中には教育者だけでなく、政治家、官僚、哲学者もいた。
1938年(昭和13年)には北海道から九州まで、広がり、東京に9支部
地方に7支部の陣列になっていた。

牧口は、人類社会は必ず軍事的競争の時代から、政治的、経済的競争の
時代を経て、人道的競争の時代へと移り変わっていくだろうと予想した。
それはまた人道的な社会を築こうとする、彼の決意でもあった。

いつ果てるとも解らない日中戦争が続く中、日本は国家主義の坂道を全力で
駆け下りて行く。
そのターニングポイントは、1940年(昭和15年)だった。
国策に順応しない宗教団体、結社への抑圧が強化された。
10月には大政翼賛会が発足し、戦争遂行の名目で政党政治までもが、
封じ込められた。
そうしたなか牧口は創価教育学会を社会変革の運動体として作り変えて行く。
その頃から、思想警察であった得高刑事の影が身辺に目立って来た。




次へ続きます。
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創価学会初代会長 牧口常三郎氏 4

Posted by mimipita on   0

「創価学会」と見ただけでアレルギーを感じる方が多数だと思います。
本当の中身を知らない事や憶測、作り事、マスコミやその他の人達による、
中傷批判によって刷り込まれてしまっています。しかしそんな国内でも、
きちんと真実の学会の姿を理解し知っている人々も大勢いらっしゃいます。
回りのバッシングを気にして伝えていないだけなのです。

世界192カ国に「創価学会」の会員がいます。会館や研修の施設も増えています。
「創価教育」の学校や幼稚園もあります。
目的は世界平和を推進する為であり、人材を育成するためです。特にアメリカにある
「アメリカ創価大学」の生徒の人種は50カ国以上にのぼり、宗教もキリスト教やイスラム教
など自由なのです。礼拝堂も複数あると聞いています。
「創価学会」が広まる事を懸念する人々は本当の中身を知らないのです。
決して宗教を押し付けるものではありません。あくまでも1対1の対話によって
広まって行くものです。そして、自分も他者も共に幸福な境涯へと高め合えるものなのです。

「創価学会」の原点は牧口常三郎会長の「創価教育学」です。
牧口は子供達の幸せを第一に考えました。国のための教育ではなく、子供の幸せになる
教育とは? どうあるべきなのか?! を、生涯をかけて、思索し学び実践して経験を
生かしてまとめたのが「創価教育学」 でした。

そのためにも大人達の幸せに目を向けました。日本の国にとどまらず、
世界中の人々の幸せを築く事を目指したのです。
そのためには宗教と言う形のものを根底には必要とずっと彼は思っていました。
キリスト教やその他仏教にも関心を抱きましたが、牧口の思想と
合致するものには出会いませんでした。
そして時は過ぎ、1928年57才のときに、「日蓮仏法」に出会うのでした。

白金尋常小学校の校長をしていた時の出入りしていた教材の行商人から、
「三谷素啓」という人物を紹介される。
三谷素啓は日蓮正宗の末寺、常在時の大石講の幹部で、活発な布教活動を
していた。
三谷から日蓮の「立正安国論」を説かれた。 牧口が問題意識している内容が
そのまま聞かされる。
その頃の日本は大戦景気の反動で経済は不況で物価高が続き米騒動が相次ぎ
関東大震災後さらに悪化をたどる。失業者があふれ、農村では娘の身売りが
公然と行なわれるほど窮乏していた。牧口の三谷に対する問いは10日も続く
ほど、牧口は真剣だった。
やがて牧口は「日蓮仏法」の信仰者の道を歩む決意をするのだった。

牧口は生涯、合理的で科学的な思考を重んじ実証主義的な生き方をつらぬいてきた。
だからと言って宗教を否定していたわけではない。
28才の「山と人生」の論文で、宇宙には人力を超えた偉大な力が存在し、
その力に対する畏敬の念が宗教心を呼び起こすのだと書いている。
彼は特定の宗教を信仰していなかったが、信ずるに足る宗教を求めていた。

事実、キリスト教や禅、古神道の教義も聞き、日蓮系の仏教講演会にも
足を運んでいるが、入信には至って居ない。自分の科学観や哲学観と
相容れなかったからと、牧口は語っている。

「ところが、法華経に逢い奉るに至っては、吾々の日常生活の基礎をなす
科学、哲学の原理に何らの矛盾がないこと」を知ったというのである。

「文証」「理証」「現証」を通して、宗教の高低浅深を決める日蓮仏法の
方法論がじつに科学的であったこと。
さらには、信仰の対象が人格的な神や仏ではなく「仏になる方法」で
あったからだという。

後に牧口は入信後をこう語っている。
「言語に絶する歓喜を以てほとんど六十年の生活法を一新する。
ほどの、変化をもたらした。
暗中模索の不安が一掃され、将来の引っ込み思案がなくなり、生活目的が
いよいよ遠大となり、畏れる事が少なくなり、大胆なる念願を禁ずるに
能わざるに至った。」

牧口は信仰により、自分の思想を社会に実現するべく勇気を持てたのだと
思います。

私も62年の人生を振り返って思いますが、正しい事をする事は勇気が
入ります。特に誰も知らない事、未知な事を伝える事は本気になり、勇気が
ないと、絶対に出来るものではありません。
しかし、社会の平和は勇気ある人達が居なければ守れません。

悪いものは悪いと表現出来る勇気ある一人が増えなえれば、悪に負けてしまうのです。
悪の根源こそ命を軽視する思想です。身近では犯罪、いじめ、利己主義。
大きくは紛争や戦争です。!

「法華経」は「命」を宝塔や仏と表現し讃えている教典です。
宗教や人種を超えて結びつける教えです。日蓮仏法はその方法を教えて
いるのです。
すべての思想を包含している、まるで、母親が赤ちゃんを抱き育むような
暖かく癒される♪ そして希望の灯がいつも点される♪21世紀の仏法なのです。


「創価学会」では全国各地で平和のための展示活動がされています。
札幌市で法華経 平和と共生のメッセージ展

 マレーシアで法華経展

今月月5日から11月3日まで今回札幌市でも
       『法華経 平和と共生のメッセージ展』が開催されます。

場所〜札幌市厚別区上野幌1条1丁目1−1
     北海道池田講堂 TEL 011-801-2470
日時〜10月5日〜11月3日(月曜日休館、10/13 11/3は開館)
    午前10:00〜20:30(入館20時まで) 入場無料

*世界では初めての展示内容と聞いています。めったに見れない重要な文献が
 展示されますので、ぜひ一度見に行く事をお勧めします。
 又全国各地でも時期は違いますが、開催しています。見る機会がありましたら、
 ぜひどうぞ。

私も10月に見に行く予定で、楽しみにしています。一生に一度あるかないかの
展示会ですので、今からワクワクしています。♪

数あるブログの中で遊びに来て下さいまして
たいへんありがとうございます。


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創価学会初代会長 牧口常三郎氏 3

Posted by mimipita on   0

牧口常三郎氏 42才(1913年 大正2年)教育現場に戻る。
その頃世界は、第一次世界大戦による、大戦景気に沸き自由主義や
民主主義的な意識が高揚し、教育界も自由主義教育の主張や実践が
おこなわれていました。

牧口も独自の教育改革を進めていた。
東京下谷区にある、東盛尋常小学校の校長に就任する。
牧口は貧しい子供達の為に、文房具の一括購入して安価で分け与えたり、
たえず子供達の事を考えて教育環境を改善して行った。

3年後、隣町に新設する、大正尋常小学校の校長に就任する事になる。
全国から優秀な教師26人を募集し、理想の教育の実践に情熱を注ぐ。
しかし、地元の有力者に自分の子を特別扱いする事を要求されるが、
牧口は断った。それを根に持った有力者は、東京市政の有力者の
高橋義信に牧口の転任を依頼する。
父兄、教師達の猛反対運動の中、1919年(大正8年)に 西町尋常小学校の校長に
転任となる。
そこは、牧口を転任させた、高橋義信の地元だった。就任の挨拶をするのが習わし
だったが、権威権力に媚びる事を嫌う牧口は拒否をする。
そのことで、6ヶ月で、再び転任をさせられる。

その西町小に居た頃4月に北海道から一人の若者が訪ねて来る。
のちの愛弟子になる、戸田甚一(戸田城聖)を教員として採用する。
牧口常三郎49才 。戸田甚一20才これが二人の運命的な出会いとなった。

牧口の次の転任先は最貧民家庭の子供のための、授業料免除の
特殊学校のひとつであった、三笠尋常小学校でした。

午前と午後の二部制で学校に来ない子供も多かった。
一軒一軒訪ねては、親の理解を得るため教育の大切さを訴えて歩いた。

弁当を持って来れない子供達の為に、豆餅やおにぎりを牧口は自腹で用意した。
子供の散髪も教師の仕事だった。時には宿舎の風呂に子供達を入れて、
衛生や基本的生活習慣を身に付けさせた。

弟子の戸田も途中から三笠小に移り、牧口の仕事を全力で協力した。
やがて3年目に成った頃、牧口をよく思わない人間の画策により、
免職という形になろうとしていた。
ところが、偶然に、東京市の助役をしていた「前田多門」の目に止まった。
前田は「郷土会」の会員で、牧口の友人だった。

前田の助力で、白金尋常小学校に栄転する事になった。
牧口の交友関係は幅広かったが、自分の事では一切友人をたよることは、
してこなかった。
牧口はほぼ10年間を白金小で自由に自分の考える教育実践を行なう事ができた。
若い教師達とも議論し、さらに自分の理論を深めて行く事も出来た。
やがてそれは彼の教育思想に結実していく。

時代は関東大震災が起き、天皇制ファシズムの坂道を転がり始めようとしていた。

牧口が白金小の転任が決まったと同時期に戸田は教師を止める。
大学入学を志しての事だった。
牧口は補習教育の塾を開く事を勧める。これが戸田の事業の基礎となる
「時習学館」のスタートだった。

「教育の質はひとえに教師の質にかかっている。教師はつねに教育技術を
磨いて行かなければならない。そのために教師は自分の授業を反省する
姿勢を忘れてはならない」 といつも口にした。

毎週月曜日の放課後は教師の磨く場とした。
「月曜講演」 教師達は研鑽や研究発表。 学者や専門家を呼び講義を
受ける事もあった。

牧口自身も絶えず、教育書や哲学書、英語も勉強し、教師たちに啓発を与えた。

関東大震災では幸いに白金小は被害をまぬがれた。
牧口は6年生と卒業生にボランテイアを呼びかけ250人が集まり「小善会」と
なづける。
物資の手配の活動をした。
牧口は子供達に社会性の大切さを実践を通して教えて行った。

震災後、白金小は東京でも珍しい鉄筋コンクリート3階建てに生まれ変わった。
震災に耐える建物にと牧口が運動した結果だった。

牧口はどの子に対しても、いつも丁寧な言葉遣いをした。
「○○さん」と呼び、子供を一人の人格として認めていたのです。
牧口にとって子供こそ中心だった。

授業についても、どうすれば子供達が楽しみながらしかも能率的に
学べるのかを真剣に悩んだ。
牧口は教科書にもドンドン線を引かせ読めない漢字には、ふりがなをふることも
勧めた。
教科書を汚す事をよしとしていない時代でも、牧口の発想は、「こどものために」
という不動の軸につらぬかれていたのです。
その思索の積み重ねが「創価教育学体系」として結実する。

教育の目的を子供の幸福に置き、子供達の能力を開花させる為に、
子供自身の知恵の扉を開くことを目指した牧口の新たな人間教育の視点は
時代を経るにしたがって評価されて来た。

いまブラジルで進む 『牧口プロジェクト』 100校を超える実践校で学ぶ
子供達の瞳の輝きが、牧口の視点の確かさを証明している。



次回へ続きます。
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創価学会初代会長 牧口常三郎氏 2

Posted by mimipita on   0

ニュースにありましたが、「盲導犬」への刺傷事件が起きました。
9才のオスカーくんです。鳴かないように訓練を受けてるために、飼い主さんは
気がつきませんでした。
このようなことをした人間を許せませんよね。抵抗しない弱いものにいたずらや
ひどい事をして、心の不満をはらす事は一番最低です。!!

こう言う事象を考えても、人間とは考え方(思想)によって、良い人間、悪い人間の
どちらにもなってしまいます。やはり、生き方、どう思って生きて行くか?ではないでしょうか?

私は創価学会員として41年になりますが、ガチガチの会員ではありません。
20代の頃はけっこうガチガチで新聞、書籍も読んでいまして、勉強をしました。
もちろん、勉強だけでなく、自行や活動、会合の参加、運営など。
役職も下の役職を30年やって来ました。聖教新聞の配達を5年ほどの経験もあります。

学会は強制される事はあまりなく、自主的に動くのが基本です。「信行学」が基本ですが、
やはり興味が湧かないと、書籍もあまり読まないですね。
父が沢山「書籍」を持っていましたが、私が読んだのは極一部です。2代会長の戸田先生や
3代会長の池田先生のも沢山ありますが、読んだのは「人間革命」「婦人抄」くらいです。後は
「新聞」や「大白蓮華」(月刊誌)を読むだけです。

ですので、「初代会長の牧口先生」の事は「価値論」「人生地理学」の理論を出した事
しか知りません。内容も知りませんでしたので、牧口先生の本が出てる事を
最近、知りまして、初めて購入して、読んだ次第です。

「牧口常三郎氏」とはどんな人物で、何を主張し、思いそして、なんのために、
投獄され、どう闘い死んで行ったのか?をブログ上で私なりにまとめて
述べて行きたいと思います。


1871年(明治4年)6月6日 新潟県柏崎市荒浜で生まれました。
渡辺長松とイネの長男で長七と名付けられた。
荒浜は漁の技術が優秀で、漁網の生産で栄えていました。

長七が幼い頃に父親が北海道に出稼ぎに行ったきり行方不明になり、
母イネは違う人と再婚することになります。その後長七が6才の時に
父の姉(叔母)トリの嫁ぎ先である牧口善太夫の養子となります。

小学校にあがると「優等生の牧口と一目おかれるようになる。家の手伝いを
しながら、勉学に励む子供だった。学校に行けなかった日は友人が来てくれて
その日の授業を教えてくてた。
長七が優秀なのは村中がしっていた。善太夫も、小学校卒だけで、終わらせたく無いと
考え、交流のあった、北海道小樽に長七14才の時に親戚知人を通し送り出す。
長七は「小樽警察署給仕」の職につく。仕事の合間や夜は自由に勉強が出来た。

勤勉な長七は「勉強給仕」と署員からも可愛がられていた。
小樽郡長である署長の森長保の推薦を受け、17才の時に
札幌の北海道尋常師範学校へ入学する。
全寮制で制服や支給金もでる待遇を受ける。苦学生には幸運なことです。

4年制の師範学校では、教育、国語、漢文、英語、数学など14科目があった。
その中の「地理科」に興味沸き、人間社会と地理との関係を解き明かしたいと
コツコツと研究をつづけた。

1893年3月 師範学校を卒業する。名前を「長七」から「常三郎」と改める。
卒業し付属小学校の教師となる。それから2年後に、同郷の紹介でクマ19才と結婚。
常三郎25才のとき。
文部省検定試験の地理科に北海道で始めて合格し、師範学校助教授となる。
付属小学校の校長もかね、28才の若さで北海道教育界を荷なう人物と期待されていた。

『内村鑑三の「地人論」』 『志賀重昂の「日本風景論」』の出版に、刺激を受け
牧口もいつしか自分の地理研究の成果を世に問いたいと願うようになる。

牧口が地理の本を出版しようと思ったのは「地理学」が軽んじられていたからだ。
地理教育の方法を改良すれば多くの教育上の疾患が解決するとの思いが有った。
牧口の考える地理学は「人」と「地」の関係を読み解き、人が生きる上での世界観と
目的を与える学問にほかならない。

牧口は退職し、東京に出る。子供2人連れ、生活は苦しくなるが「地理学」の研究だけは
続いていた。

『人生地理学』を1903年に発刊。日露戦争の前年にあたる。
牧口は人道的な世界調和の必要を説いた。
1000ページに及ぶ大著で、地理、地勢の解説、人間社会の営みと地理の関係を
語り、自然との共生を訴え、さらには世界市民の自覚に立った新たな世界観の
提示までなされている。
当時の日本の地理学を塗り替えるほどのインパクトを持ち、「小川琢治」「新渡戸稲造」
など著名な学者たちに感銘を与えた。教師や学生にも読まれ、文献地理科受験者の
必読書と言われた。

東京師範学校の同窓会「茗渓会」の書記の職に着きながら、同会発行の雑誌
「教育」の編集をしたり、女子教育の通信講座の企画運営、雑誌「日本の少女」
教員向け雑誌「先世」も編集を手がける。教育の実践家、教育ジャーナリストとして
活動をしていた。
牧口の「人生地理学」を中国語に訳し自国で出版した中国人留学生もいた。

東京では社会主義者とも議論し交流があった。牧口が主張する所と似た所があった
からだが、変革の仕方が、急進的に体制を崩すやり方には反対であった。牧口は
社会改革は、社会を構成している人間の精神面の変革を持ってしか出来ないとの
信念を持っていた。それが教育者としての、彼の誇りであった。

1910年8月 文部省嘱託、図書課で地理教科書の編纂に従事する。
12月 「郷土会」が結成され、新渡戸稲造、柳田国男、牧口も入会し、月1回の
例会や調査旅行に率先して参加していた。

牧口はどの子にも、一番幸せな人生を歩ませたい。そう願って祈るような気持ちで
教壇に立っていた。牧口にとって、教育とは、すべての民衆が幸福の扉を自分の
力で開く事が出来るように、その力を開発させるためのものであった。
だからこそより多くの子供達に教育の機会を与える事が大切だと考えていた。

特に、女子は小学校以上の教育に恵まれない、厳しい、貧困や制度不備の現実が
当時はあった。「学ぶ機会を逸してしまう少女があまりに多いことは、女性の将来の
為にも社会の未来の為にも決して傍観出来る事ではない。」と「大家庭」に書いている。

1904年5月 大日本高等女学会ー通信教育団体創立に参加する。
小学校卒業の女子向けの2年制の通信教育です。
家事、裁縫、家庭割烹、の他、地理、歴史、英語が組まれていた。

付属の女芸教習所も設立し、少女達に技能を身につけさせ経済的
自立を目指す、女性育成を進める。
しかし、日露戦争で景気が落ち込み、資金繰りが苦しくなり、この計画は
挫折する。


次に続きます。最後までご覧下さいまして、たいへん

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創価学会初代会長 牧口常三郎氏 1

Posted by mimipita on   0

信仰して41年に成ります。経験や日頃思う事を綴って行きたいと思いますので
宜しくお願い致します。

新たに創価学会の内容だけのブログを開設しました。
創価学会初代会長の牧口常三郎先生について①から続けて入れて行きたいと思いますので
宜しくお願い致します。

私は「創価学会員」の2世で、21才で発心し信仰して41年になりますが、
牧口初代会長について、あまり深くは知りませんでした。教育者で小学校の
校長を勤めていた。「価値論」「人生地理学」「創価教育学体系」の発刊。
第二次世界大戦の時に国に「反戦思想」の不敬罪の罪により、逮捕監禁され
約1年4ヶ月で「巣鴨の拘置所内」で72才で獄死をしています。

私の予備知識はこのくらいでした。知りたいとおもったのが、「価値論」の内容と
「獄中での先生の闘い」の様子を知りたいと思いました。

以下の3冊の本を購入致しました。
これから、本を読んだ感想を数回に分けて述べて行きたいと考えています。

DSC_0142-4.jpg

まだ2冊目を読んだ所ですが、中間的感想としましては、教育の思想として、
また「人生学」としては、これほどの、偉大な人物が日本に生まれた事を
心から誇りに思います。大げさではなく、世界一の思想家とも感じました。

「牧口常三郎」と言う人物が行き着くべき宗教はやはり最高の「生命哲学」を説き
表された「日蓮大聖人の仏法」に帰結するのは、当然に起こる運命だったと
感じます。
また詳しい感想はこの次から数回に分けて述べさせて頂く所存です。


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