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創価母のつぶやきブログ

信仰人生42年の経験と思う事を綴って行きたいと思っています。

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善と悪は表裏一体&「SGI」は地球上の平和の団体

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2月になりました。寒さに負けず「伝統の2月」を悔いなく頑張りたいと思っています。
の気持ちで日々過ごしています。思う事はあってもその通りの実践が伴わないのが、
私の現状ですが、いつも挑戦の気持ちは持ち続けたいです。

1月後半からの「イスラム国」の報道に心穏やかでなかったのは、皆様も同じと
思います。
何世紀にも渡って、人間は殺戮を繰り返しています。なぜにもっと賢い考え方が
出来ないのか?いつになったら人々が安穏に平和に暮らす世界になるのでしょうか?

色々と今回の「邦人の人質殺人事件」で、いやでも考えさせられたと言うか、
考えずにはいられない日々でした。
やはり根底には何が大切か!! 人間とは条件や環境だけで、平和に生きて行ける
動物ではないと言うことです。『生命』をどうとらえるか!?やはり哲学、思想の
問題だと言う考えに行き着くのです。

思想を毎日実践していくことを宗教と言う言葉になりますが、殺し合わない世界になるには、
「生命」がもっとも尊いとする、「法華経」を広める事がやはり必要になります。
だからと言って全人類が「法華経」を信仰できるかといえば、不可能でしょう。信仰者と
してはもちろん、「広宣流布」を目的に活動は止みません。
それとともに、宗教関係なく、どんな思想、宗教をしている人間でも、包含する、大きな心
の人間へと「人間革命」し友人となる絆を作る活動がより重要であり絶対に必要なのです。

『SGI』(創価学会インターナショナル)はそれを進めてる団体です。
1月26日の聖教新聞に池田SGI会長が「第40回「SGIの日 記念提言」を発表しました。
ここに、問題解決の方途を示されています。

見出しだけ抜粋します。

人道の世紀へ誓いの連帯
地球上から悲惨の二字なくす
平和の波動を民衆の手で!
苦しみ抱える人々の目線に立った政治と経済の再人間化を
一人一人の意識変革が社会を変える原動力に
同苦と励ましの心の通い合いが自他共の尊厳を照らす光に
勇気の連鎖を広げるSGIの体験談運動
平和の文化築く挑戦を
排除の思想からの脱却が課題
対話と交流で育む友情が「不戦の防波堤」の基盤に


この見出しを見ただけでも、池田SGI会長がお考えの内容が解ります。
理想的な内容です。しかし現実は簡単ではありません。
「信念と忍耐と覚悟」が必要です。! 容易に出来る事ではないでしょう。

でも世界のSGIのメンバーは牧口初代会長から85年もの永きに渡り、その
活動を間断なく持続してきたのです。
その間、世界の人権の、偉人「マハトマガンジー」「マーティン・ルーサーキング牧師」も
「法華経」の思想を持っていました。

南アフリカのマンデラ大統領も投獄中は「ガンジー」の思想を信じて戦ったと聞いています。

簡単ですが、結局は「紛争、戦争、テロ」を防ぐには、他宗教や思想を包含しつつ、
互いの違いを乗り越えて、

友情の輪を広げて行くしか方法が無いと思います。「目には目」「歯には歯」の考えでは
永遠に負の連鎖を断ち切る事は出来ないのです。ではどうするのか?が課題
ですね。
まずは邦人の方々は危険に巻き込まれないよう、細心の注意をして身を守る。
また、現実、殺人を繰り返す人間自体の覚醒をうながす、自覚する事を願いたい。
その為の、活動運動で波動を広げて行く事なのかな。そのための祈りが根本ですが。



昨年から「人間革命」の切り抜きをしています。
正直、今まで読んではいても切り抜きまではした事がありませんでした。
昔お世話に成った、方がいつもされて勉強していたのを思い出したのです。

池田先生の、お心を知りたくての想いです。ご高齢でもなお、お体にムチ打って
連載して下さっています。何度でも読み返して先生の思いを感じて進んで行きたい
と思っています。

DSC_0516-3.jpg

新聞に載っていた御書の一節です。

(道妙禅門御書)
「祈祷においては顕祈顕応・顕祈冥応・冥祈冥応・冥祈顕応の祈祷有りと
いえども只肝要は此の経の信心を致し給い候はば現当の所願満足有る可く


(通解)
祈りとその結果には顕祈顕応(けんきけんおう)・顕祈冥応(けんきみょうおう)・
冥祈冥応(みょうきみょうおう)・冥祈顕応(みょうきけんのう)の四種があるが、
ただ肝心なことは、この法華経の信心をされるならば、現在および未来の
所願は満たされるであろうということである。

(同志への指針)
「祈りとして叶わざるなし」の妙法である。
信心の功徳には、はっきりと顕れる「顕益」(けんやく)と、目に見えない
大利益が生命に積まれる「冥益」(みょうやく)がある。根本の「冥益」は
絶対であり、大事な時の「顕益」もまた厳然である。
現在、そして未来の「所願満足」を確信して、まず祈りから始めよう!
祈り抜く、祈りきるー ここにこそ、常勝の方程式があるからだ。


聖教新聞に載っていました、この御文を日々の自分の指針にしています。
祈る事は沢山ありますが、その中でも、3つの大きな願いがあります。
なんとしても!の思いなので、毎日唱題を1時間を目標にして実行しています。
久しぶりの本気の祈りです。

今までも、本気の祈りで、苦難を乗り越えてきました。
信心歴は長いですが、長い時間の唱題が苦手で、なかなか出来ないんです。
苦しくて座っていられなく成るんです。
でもこの度は、そんな自分に甘い性格を乗り越えていかなければなりません。
初心に戻って自行、化他行の実践にも励む決意です。
内容はお話出来ませんが、最後に残された人生を悔いなく挑戦します。o( ^_^ )o

「挑戦しよう!」と言う強い気持ちが湧く事こそが、「日蓮大聖人」の仏法の一番の
功徳です。人間やる気にならなければ、何事も成就出来ないですものね。

では皆様も、「挑戦」の心で、願いを叶えて行きましょう。♪


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創価学会初代会長 牧口常三郎氏 8

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とうとう昨日から雪が降り始めました。冬の到来です。

牧口初代会長は1943年(昭和18年)7月6日 72才の時に、特高警察により、
逮捕された。「治安維持法」違反及び「不敬罪」によるものだった。
同日、理事長の戸田も逮捕された。

伊豆下田の須崎の知人宅で逮捕された牧口は、刑事をしばらく待たせ、着物を着、
袴を付けた。下田署までの5kmの道のりを毅然と歩いた。まるで刑事を従えてるように。

下田署で一晩留置され翌7日、東京の警視庁に向かった。
警視庁の5階で約1ヶ月半の厳しい取り調べを受けた。
取調室は、1坪ほどの広さで真ん中に机が二つ置いてあるだけの部屋で、
窓には太い鉄の策がはめてあった。

牧口の取り調べには特高2課の課長があたった。
牧口はどんな質問にも普段と同じように悠然と自分の信条のままに述べた。
「創価教育学会の信仰理念の依拠する所は、日蓮正宗に相違なきや」の質問に、

牧口は「創価教育学会は、日蓮正宗の信仰に、私の独自の価値創造論を採り入れた
ところの立派な一個の在家的信仰団体であります。」と答えている。

牧口は創価教育学会と宗門とは、別のものであると明確に区別していた。
そこには、日蓮仏法に脈打つ「立正安国」の絶対平和の精神はすでに
学会にしか流れていないという血を吐くような思いがあった。

牧口と戸田は、東京拘置所に移ったばかりの時、短時間の
面会が許された。「先生、お体を大切に・・・・・・」戸田はそう言うのがせいいっぱい
だった。これが、師匠との永遠お別れになったのだ。


牧口が拘置されたのは、東京拘置所の第四舎と呼ばれる建物の2階の独房
だった。3畳の板の間に薄い畳が2枚しいてあり、木の蓋を開けると、
トイレと洗面所になるように作られたイスと机が備え付けられただけの、
薄暗い部屋である。
冬などは底冷えがし、持病のひざが痛み、指も凍傷にかかるほどだ。
しかし、10日に1度出す事が出来た家族宛の手紙には、
「一人住まいのアパート」や「思索が出来てかえって良い」など、家族への
気配りの内容を書いていた。

牧口の獄中の書簡は、家族への具体的な配慮や励ましに満ちていた。
その書簡もところどころ、検閲で消されていた。

牧口は予審判事の取り調べや裁判での陳述が身を持って出来る、
国家諫暁だと思い定めていた。

予審判事の取り調べが始まったのは起訴から5ヶ月後の1944年4月に
入ってからだった。
予審判事の取り調べは、東京刑事裁判所で行なわれた。
拘置所からバスで移動する。いつも15人ほどの収容者が、手錠をかけられ
編み笠をかぶせられ、数珠つなぎで護送された。

牧口はここでも予審判事に仏法の正義を説いた。
そして言い足りない事を文書で陳述書を書く事を許された。
牧口は自ら取り調べ調書を書いたのだった。

拘置所の独房で、毎日、筆をとって約1ヶ月かけて書き上げた。
1冊の本になるくらいの厚さだった。7月4日の書簡にはそれを予審判事に
提出したことが、記されている。

この自筆の調書は、日蓮の「立正安国論」に比すべき、牧口の烈々たる執念の
「諫暁」の書だったといえる。
しかし、その内容を知る事は出来ない。敗戦により、後難を恐れた予審判事が、
人知れず処分したと言われているからだ。

牧口が病艦へ移る事を希望したのは1944年(昭和19)11月17日のことだった。
すでに死を予想していたのか、すべて洗濯したものを身に付けていた。

「おぶってさしあげましょうか」
看守が、牧口の体の衰弱を見て声をかけた。 牧口は静かに断った。
「せめて手でも引いてあげましょうか」
「ひとりで歩けますから、ありがとう。・・・・」 2、3度よろけはしたが、一人で
病艦に歩いてゆき、ベッドに横たわると、ゆっくり目を閉じた。
老衰と極度の栄養失調だった。

翌18日午前6時過ぎ、牧口は眠るようにして73才の生涯を終えた。
その顔にはやるべきことをやり終えたという、穏やかな安堵の表情が
漂っていた。

『・・・・カントの哲学を精読している。
百年前、及びその後の学者共が望んで手を着けない「価値論」を
私が著し、しかも、上は法華経の信仰に結びつけ、下数千人に実証したのを
見て、自分ながら驚いている。
これ故、三障四魔が粉起するのは当然で、経文通りです。』

10月13日に家族に送ったこの書簡が、彼の絶筆となった。



最後まで見て頂きましてありがとうございます。
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創価学会初代会長 牧口常三郎氏 7

Posted by mimipita on   0

皆様こんにちわ、とうとう昨日(3日)で「法華経展」も終わりましたね。
見て来れた方々良かったですね。♪

でわ、間が空きましたが、牧口先生の内容を載せます。

1941年(昭和16年)3月 「治安維持法」が、改正され、軍部政府は戦争遂行の
ために、思想、宗教の統制強化をはかり、組織ごと取り締まる事が出来るように
しました。

そして12月、対米戦争を迎えると天皇制イデオロギーで国民を統一するために、
皇大神宮の大麻(神札)を祀る事が全国民に強制されるようになる。

牧口は、自らの宗教的信念をつらぬき、まっこうからそれに反対する。
国家権力との生命をかけた闘争をはじめたのだった。


1941(昭和16年)創価教育学会の機関誌として「価値創造」が創刊された。
牧口は精力的に論文を書き会員の指導にあたった。座談会では御書を引いて
話をする事が多くなった。
厳格に日蓮仏法を守り謗法払いも続けていた。
座談会の名称も「大善生活法実証座談会」と変えた。
そのころの「創価教育学会」の支部は、東京16、地方12、を数え、会員は
4000人までになっていた。

そしてその年の5月、「価値創造」は廃刊を命ぜられた。
当局がいよいよ危険視しだしたのだ。

11月の第5回総会で牧口は「信者と行者と区別しなければならない」と
講演した。
自分の為だけに信仰しているならば、魔は起こらない。それは小善生活の
信者である。しかし、人のため、法のため、菩薩の行動に出れば必ず
三障四魔が競い起こる。起こるがゆえに、法華経の「行者」と言われるのだ。

牧口は宗門の僧侶を「信者」にすぎないと批判した。
宗門の当局への迎合に憤りを感じていた。

1941年(昭和16年)3月10日 本山で僧俗護法会議が開かれた。
牧口と戸田が出席していた。

席上、日蓮正宗の僧、小笠原慈聞は軍部政府の手先となり、
「神本仏迹論」という邪義を立てて身延派との合同を迫った。

牧口は日蓮大聖人の仏法の正法正義を貫くよう主張したが、
弱腰の宗門は、聞き入れず、檀信徒に、大麻(神札)を受諾するよう
通告する。宗門は大聖人に違背し、戦争協力へ傾斜して行った。

その後牧口は、当時の法主、日恭上人に「いまこそ国家諫暁の時である。!」と
直諫するが、当局を恐れる法主は、牧口と戸田を登山禁止処分にしたのだった。

座談会に特高警察が立ち会うことが増えて来た。
昭和18年頃には、話が「神札」や「国家体制」の内容になると
「弁士! 中止!中止!」と直接さえぎるようになった。

牧口は何度中断されようと、国家崇拝、邪宗崇拝の非を訴える事を
止めなかった。
牧口は自分の言動で不当逮捕になる危険を予想していた。
その時は、法廷で自分の考えを主張しようと国家諫暁の姿勢をつらぬく
決意を固めていた。

すでに警視庁に2度呼ばれていた。5月には中野署に1週間留置され
取り調べを受けた。牧口はその頃から逮捕を現実の事と受け止めはじめた。

牧口は戸田に言った。
「一宗が滅びることではない。一国が滅びる事をなげくのである。
いまこそ、国家諫暁のときではないか。なにを恐れているのか!」

牧口は7月4日から伊豆の下田で座談会に出席していたが、6日の朝、
刑事に連行された。「治安維持法」「不敬罪」の容疑だった。

戸田も同日、目黒の自宅で、逮捕されたのだった。

牧口72才の時だった。これから獄死までの500日の獄中の闘いが始まるのです。


次へ続きます。最後まで見て下さいまして

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創価学会初代会長 牧口常三郎氏 6

Posted by mimipita on   0

皆様こんにちわ、題名が変わりまして初めての更新です。
複数のブログをやっているものですから、間違って出してることがあり、
ご迷惑をおかけしています事をお詫び致します。m(_ _)m

どうか「創価母のつぶやきブログ」を宜しくお願い致します。

では牧口先生のお話に移ります。

創価教育学会が誕生した、1935年(昭和10年)の頃は、会長のポストは
空白のままだった、牧口は創価教育学研究部の所長の地位にいた。
会長には社会的に影響力のある有力者に着いてもらう予定でした。

1939年(昭和14年)創価教育学会 第1回総会が東京麻布の菊水亭で
行なわれた。
地道な運動の中で教育者ばかりではなく、家庭婦人や一般人も会員に多く
なっていた。
牧口自身、法華経はすべての生活法の革新のカギで、教育法の改革はその一部に
過ぎないという思いを強くするようになっていた。

翌年には第2回総会が開かれ、新しい会の綱領規約などが検討された。
会の目的だった「教育改造」の文字が消え、法華経を基盤に
「教育、宗教、生活法の革新を計り」「国家及び国民の幸福を進めるを目的」とし、

仏法流布を推進することが確認された。
この時空席だった、会長に牧口がつき、理事長に戸田が就任した。

本部は戸田が経営する「自習学館」の2階におかれ、教育研究部、教育者倶楽部、
折伏指導部、婦人部、青年部などの新しい組織体制が生まれた。

牧口が正確に法華経を学ぶ事ができたのは、日蓮正宗の僧侶だった、
堀米泰栄から直接、日蓮仏法を学んだことが大きい。
堀米は、早稲田大学東洋哲学科卒で、牧口の考える在家中心の信仰活動に
強い共感を感じていたのだった。

第2回総会は軍人会館で開かれた。その後 政党関係者が集まる会合でも
講演をした。牧口の話は当時の軍国主義思想を明確に否定するものだった。

「道理に合わない滅私奉公はするべきではない。自己を空にせよというのは
ウソである。両方とも栄えなければならない。」
とつぜん、会場から怒鳴り声が響いた。!
「だまれ!いまは滅私奉公が大切なのだ!」

一瞬場内は緊迫した空気に包まれたが、牧口は静かに威厳をもった声で
「善と利が一致する。つまり、自分も共に幸福になろうというのが本当である。」
と信念を述べた。

それは戦争一色に染まって行く社会を憂える牧口の心の底からの気持ちだった。

牧口は、仏法流布を進めるうえで、体験を語り合う座談会と、個人指導を
重視した。火曜日は自習学館で、金曜日は白金の牧口の自宅で個人指導に
あたり、その他の日は各地の座談会に出席し、合間に教育者倶楽部や
創価教育の講義をし、地方には折伏にも出かけるというフル回転の日々でした。

牧口はどの座談会にも、誰よりも早く会場に来ていた。そして1人でも出席者が
くるとすぐに座談会を始めた。その人の生活の悩みを聞き、信仰上の質問に耳を
傾け優しく仏法の説明をした。そのうち人が次第に増え、自然な形で座談会は
進んでいくのだった。

牧口の教育思想の根幹をなすものが「価値論」であった。
最高の価値を創造して生きる事が人生の幸福であると考え、人間が創造できる
ものとして「価値」を位置づけた。

哲学者カントが唱える「真・善・美」の「価値論の思想」を自分の思想へ消化し

牧口は「美・利・善」と言う独自の価値論を主張した。
さらに人間の生活や生命にとって役立つものを「正価値」とし、マイナスの
作用をするものを「反価値」と考えた。
「美・利・善」に対し「反価値」とは「醜・害・悪」である。

牧口の善の定義は「公益」だった。公益に反する行為は、「悪」となる。
「善い事をするのと、悪いことをしないのは、同じか違うか?」
座談会で牧口はよくこう問いかけた。
悪い事をしないのは、本人にとっては善の行為だが社会全体からみれば
悪を助長させることにつながり、善の行為にはならないと説いた。

牧口は善に大・中・小の三つがあり、小善(利己的善)、中善(偽善的善)を去り
大善の生活をすることを力説した。

大善生活とは、牧口にとって、日蓮仏法を根幹に限りない生命力をわが内から
引き出し、社会の幸福と個人の幸福を共に実現する生き方だった。

牧口先生の生前の言葉から。
「宗教は人生の背骨である。宗教をもたないで生きるのは、背骨がなくて
 歩くようなものである。」

牧口はつねに一人の友との対話を通し、それを積み重ねていくことで、
仏法の正しさを納得させて行こうとした。
ある時一人の青年が、「もっと大規模な講演形式にしたほうが良いのでは
ないでしょうか。」と意見を述べた。

即座に牧口は、「いや、それは違う。人生に関する問題は対話でなくては
相手に通じない。   日蓮大聖人の『立正安国論』も問答形式ではないか」
と答えた。
牧口の「一人の人のために」と言う精神は、今も変わらず創価学会のなかに
脈々と生き続けている。



次へ続きます。最後まで見て頂きまして

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創価学会初代会長 牧口常三郎氏 3

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牧口常三郎氏 42才(1913年 大正2年)教育現場に戻る。
その頃世界は、第一次世界大戦による、大戦景気に沸き自由主義や
民主主義的な意識が高揚し、教育界も自由主義教育の主張や実践が
おこなわれていました。

牧口も独自の教育改革を進めていた。
東京下谷区にある、東盛尋常小学校の校長に就任する。
牧口は貧しい子供達の為に、文房具の一括購入して安価で分け与えたり、
たえず子供達の事を考えて教育環境を改善して行った。

3年後、隣町に新設する、大正尋常小学校の校長に就任する事になる。
全国から優秀な教師26人を募集し、理想の教育の実践に情熱を注ぐ。
しかし、地元の有力者に自分の子を特別扱いする事を要求されるが、
牧口は断った。それを根に持った有力者は、東京市政の有力者の
高橋義信に牧口の転任を依頼する。
父兄、教師達の猛反対運動の中、1919年(大正8年)に 西町尋常小学校の校長に
転任となる。
そこは、牧口を転任させた、高橋義信の地元だった。就任の挨拶をするのが習わし
だったが、権威権力に媚びる事を嫌う牧口は拒否をする。
そのことで、6ヶ月で、再び転任をさせられる。

その西町小に居た頃4月に北海道から一人の若者が訪ねて来る。
のちの愛弟子になる、戸田甚一(戸田城聖)を教員として採用する。
牧口常三郎49才 。戸田甚一20才これが二人の運命的な出会いとなった。

牧口の次の転任先は最貧民家庭の子供のための、授業料免除の
特殊学校のひとつであった、三笠尋常小学校でした。

午前と午後の二部制で学校に来ない子供も多かった。
一軒一軒訪ねては、親の理解を得るため教育の大切さを訴えて歩いた。

弁当を持って来れない子供達の為に、豆餅やおにぎりを牧口は自腹で用意した。
子供の散髪も教師の仕事だった。時には宿舎の風呂に子供達を入れて、
衛生や基本的生活習慣を身に付けさせた。

弟子の戸田も途中から三笠小に移り、牧口の仕事を全力で協力した。
やがて3年目に成った頃、牧口をよく思わない人間の画策により、
免職という形になろうとしていた。
ところが、偶然に、東京市の助役をしていた「前田多門」の目に止まった。
前田は「郷土会」の会員で、牧口の友人だった。

前田の助力で、白金尋常小学校に栄転する事になった。
牧口の交友関係は幅広かったが、自分の事では一切友人をたよることは、
してこなかった。
牧口はほぼ10年間を白金小で自由に自分の考える教育実践を行なう事ができた。
若い教師達とも議論し、さらに自分の理論を深めて行く事も出来た。
やがてそれは彼の教育思想に結実していく。

時代は関東大震災が起き、天皇制ファシズムの坂道を転がり始めようとしていた。

牧口が白金小の転任が決まったと同時期に戸田は教師を止める。
大学入学を志しての事だった。
牧口は補習教育の塾を開く事を勧める。これが戸田の事業の基礎となる
「時習学館」のスタートだった。

「教育の質はひとえに教師の質にかかっている。教師はつねに教育技術を
磨いて行かなければならない。そのために教師は自分の授業を反省する
姿勢を忘れてはならない」 といつも口にした。

毎週月曜日の放課後は教師の磨く場とした。
「月曜講演」 教師達は研鑽や研究発表。 学者や専門家を呼び講義を
受ける事もあった。

牧口自身も絶えず、教育書や哲学書、英語も勉強し、教師たちに啓発を与えた。

関東大震災では幸いに白金小は被害をまぬがれた。
牧口は6年生と卒業生にボランテイアを呼びかけ250人が集まり「小善会」と
なづける。
物資の手配の活動をした。
牧口は子供達に社会性の大切さを実践を通して教えて行った。

震災後、白金小は東京でも珍しい鉄筋コンクリート3階建てに生まれ変わった。
震災に耐える建物にと牧口が運動した結果だった。

牧口はどの子に対しても、いつも丁寧な言葉遣いをした。
「○○さん」と呼び、子供を一人の人格として認めていたのです。
牧口にとって子供こそ中心だった。

授業についても、どうすれば子供達が楽しみながらしかも能率的に
学べるのかを真剣に悩んだ。
牧口は教科書にもドンドン線を引かせ読めない漢字には、ふりがなをふることも
勧めた。
教科書を汚す事をよしとしていない時代でも、牧口の発想は、「こどものために」
という不動の軸につらぬかれていたのです。
その思索の積み重ねが「創価教育学体系」として結実する。

教育の目的を子供の幸福に置き、子供達の能力を開花させる為に、
子供自身の知恵の扉を開くことを目指した牧口の新たな人間教育の視点は
時代を経るにしたがって評価されて来た。

いまブラジルで進む 『牧口プロジェクト』 100校を超える実践校で学ぶ
子供達の瞳の輝きが、牧口の視点の確かさを証明している。



次回へ続きます。
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