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創価母のつぶやきブログ

信仰人生42年の経験と思う事を綴って行きたいと思っています。

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Posted by mimipita on  

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創価学会初代会長 牧口常三郎氏 5

Posted by mimipita on   0

今日は朝から小雨で天気が悪くて寒いです。朝の部屋の温度は18℃と
肌寒く、いよいよ秋の終わりに成って来ましたね。

長野の御嶽山の噴火に巻き込まれ犠牲になられた方々のご冥福をお祈り致します。
二次災害や雨による、土砂災害が気になる所ですね。
日本は火山の多い国ですから、人ごとではないですよね。私は登山の趣味は
ないのですが、登山の状況をよく調べてから実行するのが大事かと思います。

では、牧口先生のお話を始めたいと思います。

牧口は独創的な自分の教育理論(価値を創造する)をメモに書留、
膨大な量になっていました。

現役の教師が教育学説を発表した人はいませんでした。
弟子の戸田は牧口の書き溜めた資料をまとめました。
1930年(昭和5年)11月18日 に
「創価教育学体系」第1巻が発刊された。

その日は二人にとって、「創価教育学会」の発足の日でもあった。
教育界に波紋を呼び新聞や雑誌にも取り上げられ識者からも高い評価を
受けた。
「創価教育学支援会」も結成される。
犬養穀(いぬがいつよし)、鳩山一郎、新渡戸稲造、柳田国男らも会員になる。
牧口は日本帝国大学で、講師として呼ばれ講演を行なっている。

しかし反勢力により、牧口はまたも、白金から転属に追いやられる。
廃校が決まっている、麻布新堀尋常小学校に転属辞令がだされ、
19年間の校長生活に別れを告げたのだった。

その頃の社会情勢は、1929年(昭和4年)世界史上最大の金融大恐慌が
襲った。日本は深刻な恐慌不況から脱する道を満州の植民地化に求める。
1932年(昭和7年)満州国の建国宣言をする。世界から批判の的となり、
翌年、国際連盟を脱退する。
日本は軍国化、侵略主義の道をひた走る。
1938年ドロ沼の日中戦争を戦う。

そんな中、牧口は国家を憂い社会改革のために、教育改造の急務成る事を
叫ぶのだった。
「創価教育学体系」は毎年1巻づつ発刊され、3巻の編集が進んでいた頃に
牧口は校長職を退く事と成る。残りを退職金をあてて、刊行した。
戸田は教育関連の事業で経済的に牧口を支えた。
「創価教育学体系」は4巻までしか出版されなかった。
牧口は書物での教育界への与える影響力の限界を感じていた。

時習学館の教師や若手の教師が牧口に共鳴し会員に加わって行った。
牧口は精力的に、教育改革を訴えるため各地で講演活動を始め、機関誌
「教育改造」を発刊し、精力的に創価教育の普及に努めた。

終了後の懇談の場では「それを進めるには正しい信仰をもつことが不可欠
なのだ」と、日蓮仏法を語った。 1人2人と信仰に目覚めさせていった。

会の目的は「創価教育学体系を中心に教育学の研究と優良なる教育者の
養成とをなし、国家教育の改造を計るを以て目的とす。」
と明確に書かれている。
牧口は、国を挙げて戦争への道を突き進んで行く日本の進路を変えるには、
教育によって賢明な民衆を育てて行くことが何より必要なことと考えていた。
会員数は70人ほとんどが教育者だった。

牧口は率先して地方をまわり、運動を広げて行った。
その中には教育者だけでなく、政治家、官僚、哲学者もいた。
1938年(昭和13年)には北海道から九州まで、広がり、東京に9支部
地方に7支部の陣列になっていた。

牧口は、人類社会は必ず軍事的競争の時代から、政治的、経済的競争の
時代を経て、人道的競争の時代へと移り変わっていくだろうと予想した。
それはまた人道的な社会を築こうとする、彼の決意でもあった。

いつ果てるとも解らない日中戦争が続く中、日本は国家主義の坂道を全力で
駆け下りて行く。
そのターニングポイントは、1940年(昭和15年)だった。
国策に順応しない宗教団体、結社への抑圧が強化された。
10月には大政翼賛会が発足し、戦争遂行の名目で政党政治までもが、
封じ込められた。
そうしたなか牧口は創価教育学会を社会変革の運動体として作り変えて行く。
その頃から、思想警察であった得高刑事の影が身辺に目立って来た。




次へ続きます。
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創価学会初代会長 牧口常三郎氏 4

Posted by mimipita on   0

「創価学会」と見ただけでアレルギーを感じる方が多数だと思います。
本当の中身を知らない事や憶測、作り事、マスコミやその他の人達による、
中傷批判によって刷り込まれてしまっています。しかしそんな国内でも、
きちんと真実の学会の姿を理解し知っている人々も大勢いらっしゃいます。
回りのバッシングを気にして伝えていないだけなのです。

世界192カ国に「創価学会」の会員がいます。会館や研修の施設も増えています。
「創価教育」の学校や幼稚園もあります。
目的は世界平和を推進する為であり、人材を育成するためです。特にアメリカにある
「アメリカ創価大学」の生徒の人種は50カ国以上にのぼり、宗教もキリスト教やイスラム教
など自由なのです。礼拝堂も複数あると聞いています。
「創価学会」が広まる事を懸念する人々は本当の中身を知らないのです。
決して宗教を押し付けるものではありません。あくまでも1対1の対話によって
広まって行くものです。そして、自分も他者も共に幸福な境涯へと高め合えるものなのです。

「創価学会」の原点は牧口常三郎会長の「創価教育学」です。
牧口は子供達の幸せを第一に考えました。国のための教育ではなく、子供の幸せになる
教育とは? どうあるべきなのか?! を、生涯をかけて、思索し学び実践して経験を
生かしてまとめたのが「創価教育学」 でした。

そのためにも大人達の幸せに目を向けました。日本の国にとどまらず、
世界中の人々の幸せを築く事を目指したのです。
そのためには宗教と言う形のものを根底には必要とずっと彼は思っていました。
キリスト教やその他仏教にも関心を抱きましたが、牧口の思想と
合致するものには出会いませんでした。
そして時は過ぎ、1928年57才のときに、「日蓮仏法」に出会うのでした。

白金尋常小学校の校長をしていた時の出入りしていた教材の行商人から、
「三谷素啓」という人物を紹介される。
三谷素啓は日蓮正宗の末寺、常在時の大石講の幹部で、活発な布教活動を
していた。
三谷から日蓮の「立正安国論」を説かれた。 牧口が問題意識している内容が
そのまま聞かされる。
その頃の日本は大戦景気の反動で経済は不況で物価高が続き米騒動が相次ぎ
関東大震災後さらに悪化をたどる。失業者があふれ、農村では娘の身売りが
公然と行なわれるほど窮乏していた。牧口の三谷に対する問いは10日も続く
ほど、牧口は真剣だった。
やがて牧口は「日蓮仏法」の信仰者の道を歩む決意をするのだった。

牧口は生涯、合理的で科学的な思考を重んじ実証主義的な生き方をつらぬいてきた。
だからと言って宗教を否定していたわけではない。
28才の「山と人生」の論文で、宇宙には人力を超えた偉大な力が存在し、
その力に対する畏敬の念が宗教心を呼び起こすのだと書いている。
彼は特定の宗教を信仰していなかったが、信ずるに足る宗教を求めていた。

事実、キリスト教や禅、古神道の教義も聞き、日蓮系の仏教講演会にも
足を運んでいるが、入信には至って居ない。自分の科学観や哲学観と
相容れなかったからと、牧口は語っている。

「ところが、法華経に逢い奉るに至っては、吾々の日常生活の基礎をなす
科学、哲学の原理に何らの矛盾がないこと」を知ったというのである。

「文証」「理証」「現証」を通して、宗教の高低浅深を決める日蓮仏法の
方法論がじつに科学的であったこと。
さらには、信仰の対象が人格的な神や仏ではなく「仏になる方法」で
あったからだという。

後に牧口は入信後をこう語っている。
「言語に絶する歓喜を以てほとんど六十年の生活法を一新する。
ほどの、変化をもたらした。
暗中模索の不安が一掃され、将来の引っ込み思案がなくなり、生活目的が
いよいよ遠大となり、畏れる事が少なくなり、大胆なる念願を禁ずるに
能わざるに至った。」

牧口は信仰により、自分の思想を社会に実現するべく勇気を持てたのだと
思います。

私も62年の人生を振り返って思いますが、正しい事をする事は勇気が
入ります。特に誰も知らない事、未知な事を伝える事は本気になり、勇気が
ないと、絶対に出来るものではありません。
しかし、社会の平和は勇気ある人達が居なければ守れません。

悪いものは悪いと表現出来る勇気ある一人が増えなえれば、悪に負けてしまうのです。
悪の根源こそ命を軽視する思想です。身近では犯罪、いじめ、利己主義。
大きくは紛争や戦争です。!

「法華経」は「命」を宝塔や仏と表現し讃えている教典です。
宗教や人種を超えて結びつける教えです。日蓮仏法はその方法を教えて
いるのです。
すべての思想を包含している、まるで、母親が赤ちゃんを抱き育むような
暖かく癒される♪ そして希望の灯がいつも点される♪21世紀の仏法なのです。


「創価学会」では全国各地で平和のための展示活動がされています。
札幌市で法華経 平和と共生のメッセージ展

 マレーシアで法華経展

今月月5日から11月3日まで今回札幌市でも
       『法華経 平和と共生のメッセージ展』が開催されます。

場所〜札幌市厚別区上野幌1条1丁目1−1
     北海道池田講堂 TEL 011-801-2470
日時〜10月5日〜11月3日(月曜日休館、10/13 11/3は開館)
    午前10:00〜20:30(入館20時まで) 入場無料

*世界では初めての展示内容と聞いています。めったに見れない重要な文献が
 展示されますので、ぜひ一度見に行く事をお勧めします。
 又全国各地でも時期は違いますが、開催しています。見る機会がありましたら、
 ぜひどうぞ。

私も10月に見に行く予定で、楽しみにしています。一生に一度あるかないかの
展示会ですので、今からワクワクしています。♪

数あるブログの中で遊びに来て下さいまして
たいへんありがとうございます。


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創価学会初代会長 牧口常三郎氏 2

Posted by mimipita on   0

ニュースにありましたが、「盲導犬」への刺傷事件が起きました。
9才のオスカーくんです。鳴かないように訓練を受けてるために、飼い主さんは
気がつきませんでした。
このようなことをした人間を許せませんよね。抵抗しない弱いものにいたずらや
ひどい事をして、心の不満をはらす事は一番最低です。!!

こう言う事象を考えても、人間とは考え方(思想)によって、良い人間、悪い人間の
どちらにもなってしまいます。やはり、生き方、どう思って生きて行くか?ではないでしょうか?

私は創価学会員として41年になりますが、ガチガチの会員ではありません。
20代の頃はけっこうガチガチで新聞、書籍も読んでいまして、勉強をしました。
もちろん、勉強だけでなく、自行や活動、会合の参加、運営など。
役職も下の役職を30年やって来ました。聖教新聞の配達を5年ほどの経験もあります。

学会は強制される事はあまりなく、自主的に動くのが基本です。「信行学」が基本ですが、
やはり興味が湧かないと、書籍もあまり読まないですね。
父が沢山「書籍」を持っていましたが、私が読んだのは極一部です。2代会長の戸田先生や
3代会長の池田先生のも沢山ありますが、読んだのは「人間革命」「婦人抄」くらいです。後は
「新聞」や「大白蓮華」(月刊誌)を読むだけです。

ですので、「初代会長の牧口先生」の事は「価値論」「人生地理学」の理論を出した事
しか知りません。内容も知りませんでしたので、牧口先生の本が出てる事を
最近、知りまして、初めて購入して、読んだ次第です。

「牧口常三郎氏」とはどんな人物で、何を主張し、思いそして、なんのために、
投獄され、どう闘い死んで行ったのか?をブログ上で私なりにまとめて
述べて行きたいと思います。


1871年(明治4年)6月6日 新潟県柏崎市荒浜で生まれました。
渡辺長松とイネの長男で長七と名付けられた。
荒浜は漁の技術が優秀で、漁網の生産で栄えていました。

長七が幼い頃に父親が北海道に出稼ぎに行ったきり行方不明になり、
母イネは違う人と再婚することになります。その後長七が6才の時に
父の姉(叔母)トリの嫁ぎ先である牧口善太夫の養子となります。

小学校にあがると「優等生の牧口と一目おかれるようになる。家の手伝いを
しながら、勉学に励む子供だった。学校に行けなかった日は友人が来てくれて
その日の授業を教えてくてた。
長七が優秀なのは村中がしっていた。善太夫も、小学校卒だけで、終わらせたく無いと
考え、交流のあった、北海道小樽に長七14才の時に親戚知人を通し送り出す。
長七は「小樽警察署給仕」の職につく。仕事の合間や夜は自由に勉強が出来た。

勤勉な長七は「勉強給仕」と署員からも可愛がられていた。
小樽郡長である署長の森長保の推薦を受け、17才の時に
札幌の北海道尋常師範学校へ入学する。
全寮制で制服や支給金もでる待遇を受ける。苦学生には幸運なことです。

4年制の師範学校では、教育、国語、漢文、英語、数学など14科目があった。
その中の「地理科」に興味沸き、人間社会と地理との関係を解き明かしたいと
コツコツと研究をつづけた。

1893年3月 師範学校を卒業する。名前を「長七」から「常三郎」と改める。
卒業し付属小学校の教師となる。それから2年後に、同郷の紹介でクマ19才と結婚。
常三郎25才のとき。
文部省検定試験の地理科に北海道で始めて合格し、師範学校助教授となる。
付属小学校の校長もかね、28才の若さで北海道教育界を荷なう人物と期待されていた。

『内村鑑三の「地人論」』 『志賀重昂の「日本風景論」』の出版に、刺激を受け
牧口もいつしか自分の地理研究の成果を世に問いたいと願うようになる。

牧口が地理の本を出版しようと思ったのは「地理学」が軽んじられていたからだ。
地理教育の方法を改良すれば多くの教育上の疾患が解決するとの思いが有った。
牧口の考える地理学は「人」と「地」の関係を読み解き、人が生きる上での世界観と
目的を与える学問にほかならない。

牧口は退職し、東京に出る。子供2人連れ、生活は苦しくなるが「地理学」の研究だけは
続いていた。

『人生地理学』を1903年に発刊。日露戦争の前年にあたる。
牧口は人道的な世界調和の必要を説いた。
1000ページに及ぶ大著で、地理、地勢の解説、人間社会の営みと地理の関係を
語り、自然との共生を訴え、さらには世界市民の自覚に立った新たな世界観の
提示までなされている。
当時の日本の地理学を塗り替えるほどのインパクトを持ち、「小川琢治」「新渡戸稲造」
など著名な学者たちに感銘を与えた。教師や学生にも読まれ、文献地理科受験者の
必読書と言われた。

東京師範学校の同窓会「茗渓会」の書記の職に着きながら、同会発行の雑誌
「教育」の編集をしたり、女子教育の通信講座の企画運営、雑誌「日本の少女」
教員向け雑誌「先世」も編集を手がける。教育の実践家、教育ジャーナリストとして
活動をしていた。
牧口の「人生地理学」を中国語に訳し自国で出版した中国人留学生もいた。

東京では社会主義者とも議論し交流があった。牧口が主張する所と似た所があった
からだが、変革の仕方が、急進的に体制を崩すやり方には反対であった。牧口は
社会改革は、社会を構成している人間の精神面の変革を持ってしか出来ないとの
信念を持っていた。それが教育者としての、彼の誇りであった。

1910年8月 文部省嘱託、図書課で地理教科書の編纂に従事する。
12月 「郷土会」が結成され、新渡戸稲造、柳田国男、牧口も入会し、月1回の
例会や調査旅行に率先して参加していた。

牧口はどの子にも、一番幸せな人生を歩ませたい。そう願って祈るような気持ちで
教壇に立っていた。牧口にとって、教育とは、すべての民衆が幸福の扉を自分の
力で開く事が出来るように、その力を開発させるためのものであった。
だからこそより多くの子供達に教育の機会を与える事が大切だと考えていた。

特に、女子は小学校以上の教育に恵まれない、厳しい、貧困や制度不備の現実が
当時はあった。「学ぶ機会を逸してしまう少女があまりに多いことは、女性の将来の
為にも社会の未来の為にも決して傍観出来る事ではない。」と「大家庭」に書いている。

1904年5月 大日本高等女学会ー通信教育団体創立に参加する。
小学校卒業の女子向けの2年制の通信教育です。
家事、裁縫、家庭割烹、の他、地理、歴史、英語が組まれていた。

付属の女芸教習所も設立し、少女達に技能を身につけさせ経済的
自立を目指す、女性育成を進める。
しかし、日露戦争で景気が落ち込み、資金繰りが苦しくなり、この計画は
挫折する。


次に続きます。最後までご覧下さいまして、たいへん

ありがとうございます。


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